文脈を宿さない赤べこは民芸品といえるのか
- 結城

- 8月7日
- 読了時間: 2分
会津といえば赤べこ!
福島といえば赤べこ!
とまぁ、最近なんにでも赤べこをくっつけたがるのはどうなのか? と思いつつ……
赤べこの起源は会津柳津といわれていますね。
伝承にあやかって張り子を作ったのが始まりだ、と。
そこでふと思うわけです。
「その文脈から外れた赤べこは、果たして赤べこなのか?」と。
郷土の民芸品というのは、その土地で、受け継がれてきた文脈も踏まえて形作られるからこそ「民芸品」なのだと思います。
その土地で、その土地の文化のエッセンスを込めて作られるから、価値がある。
「かわいいから」
「人気だから」
という理由で、外の場所で「○○でござい」と作られた民芸品は、果たして「民芸品」といえるのでしょうか……最近、ふとそんなことを思います。
極端なことを言えば、
「形がユニークだから」という理由で作られたアメリカ産の土湯こけしは、「土湯こけし」なのか?
「日本らしい絵柄だから」という理由で作られたヨーロッパ産の高崎だるまは、「高崎だるま」なのか?
そういうことです。
最近、赤べこにも同じことが言えるように思うんです。
張り子の型はおなじでも、赤くもなければ牛でもないものを「アカベコ」のくくりで出すのは、今日まで受け継がれてきた文脈をあまりにも無視していやしないか? と。
私は、これからの時代の地域創生には「その土地の文化の編集・翻訳」が欠かせなくなると考えています。
そのために必要なのが、その土地の文化と文脈を知ることです。
なぜそれが生まれたのか、どうして今まで受け継がれているのか……それを理解しなければ、未来につながる形に編集・翻訳はできない。
某アカベコのテーマパークと称する店の前を通るたび「ここの赤べこは、未来につないでいける赤べこなんだろうか?」と思います。
ちゃんと赤べこに宿る文脈も含めて、作られたものなのだろうか? と。
